大学がイマイチ楽しくないけど「満足した豚より、不満足な人間」を知った

特に大きな不満があるわけではないけれど、なんだか物足りない。周りの人が自分よりも楽しそうに思える。

ちょっともやもやしながら毎日を過ごしていたとき、大学の経済思想史の授業で出会った言葉に安心感を覚えました。

大学に入ってからモヤモヤしていた

大学生活の醍醐味は、サークルや部活に打ち込んで、飲み会に参加して、先輩後輩と遊んで、免許を取って友達と車で遠出。バイトも始めて収入も増えたし、買い物も楽しくなってきて、おしゃれして、ちょっと大人に近づいて。

別に、こういう大学生活を送りたくて大学に入ったわけではないけれど、周りの子達が「充実した大学生活」を送っているのを見て、モヤモヤを抱えてた。「どんどん飲め飲め」という飲み会も好きではないし、オール(徹夜で遊ぶこと)にも興味がない。

「あの授業またサボっちゃったよ~単位やばいかな」という会話も飽きたし、かと言って自分も大学の授業に大して興味を持てない。授業をサボってサークルのみんなと遊んでいる子達がとても楽しそうに見えて、ちょっとモヤモヤ。

そんなときに大学の授業で出会った言葉

経済思想史の授業で、経済学者J.S.ミルの言葉が引用されたときだった。ちょっと難しい言い方をしていますが、原文はこちら。

満足した豚であるより、不満足な人間である方がよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれと違った意見を持っているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。…/反論する者は、高級な快楽の感受能力を持つ人の多くが、ときどき誘惑に負けてそれらを捨て、低級な快楽に走るのではないかと言うのかもしれない。だがこのことは、高級な快楽が本質的に優れていることを全面的に承認することと少しも矛盾しない。

功利主義論』、『世界の名著ベンサム・J.S.ミル』中央公論社、1979年、470貢

これはJ.S.ミルの功利主義に対する考え方で、簡単に言えば「幸福の量だけでなく質も重視すべきである」ということ。

幸せの種類が違うだけ

飲み会や買い物、サークルなどのわかりやすく楽しいことをしていなくても、自分にとって価値のある幸せって他にあるよなあ、と。
例えば、授業に真面目に出て、知識を得て人生を豊かにすること、家族と過ごし、本当に仲のいい友達とだけ交流する時間。本を読んだり、ブログを書いたり、ギターを弾いたり、インターンをしたり。

いわゆる陽キャラの人たちのように、「大学生活最高イェーイ」という楽しさではないけれど、私は私で別の質の幸福を感じているのです。

最初から別に日々に不満はなかったし、楽しく過ごしているとは思っていたけれど、なんだかこのJ.S.ミルの名言を聞いてスッキリしたんですよね。

いや、陽キャラの人たちのことを満足した豚だと呼んでいるわけではなく、違う種類の幸福があることを容認できたことの喜びだったんだと思います。いぇーいという楽しみかたも人生を豊かにするし、コミュニケーションにつながるし、いいなぁと思います。それこそ、私のほうが満足した豚で、彼らが不満足なソクラテスなのかもしれないし。

幸せのキャパシティという考え方

この「満足した豚であるより、不満足な人間である方がよい」という名言のもう1つの(私の勝手な)捉え方があります。

人間的に相当悪徳で、幸せになるに値しないと思える人がいるとします。例えば自分の大切な人に危害を与えた人や、大きな犯罪を犯した人。彼らが幸せを感じることを妨げようと思う気持ちはわかります。

でも、彼らが感じることのできる幸せは「低級な快楽」だと考えてみるとどうでしょう。幸せのキャパがないという言い方もできるかもしれません。豚の100%の幸せは、人間の50%の幸せでしかないんです。

ここで私が「豚」と表現している人たちは、人間的に悪徳=人の苦しみを鑑みることができない人ということだとします。
苦しみを感じる・想像することのできない人が、幸せを感じることができると思いますか?
私はそう思いません。幸せに値しない人は、幸せを感じる力もないのだと思うのです。

そう考えると、「自分の大切な人に危害を与えた人や、大きな犯罪を犯した人」がどんなに幸せな生活を送っていたとしても、それは本当の幸せであるはずがないので、広い心で受け入れることができるのではないでしょうか。

名言の捉えかたは人によって、状況によって変わるものだと思います。
私はこの記事で紹介した2つの捉え方をし、ちょっと生活が豊かになった気がします。
こういう発見の積み重ねが、「高級な快楽」なのかもしれません。